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思い出の旅

私は、4年ぶりに初めて実家のカウアイ島を訪れてきている。この間来たのは、2009年に日系二世の祖父が97歳の高齢でこの世を去った時だった。アメリカ、日本と台湾にバラバラに住んでいる家族は、告別式に参列するためにカウアイ島のハナペペの街にある禅宗寺に集めてきた。鐘撞き堂もある立派なお寺で、ざっと見た限りでは日本にいるかと思わせるくらいだったが、日本から来た親族にはきっと違和感を覚えさせただろう。椿、サツキ、ツツジ、サザンカの代わりにドラセナ、ヤシ、シェフレアといった熱帯植物が、お寺の周りに溶岩の間に植えてあった。本堂に入って背景に流れていた曲は今まで覚えている。イ・ムジチ合奏団がバロック風に演奏した早春賦、荒城の月、赤とんぼ、雪降る町といった日本の四季を語る民謡、祖父が生前好きだった昭和時代の演歌、そして参列者全員が涙をこぼした最終曲アメージンググレイス(すばらしき恩寵)は、まだ耳に残っている。

祖父は生前一般世論によると、偉い人だとは思えなかった。ただ地方の電気力会社の会計士にすぎなかった。それにもかかわらず、祖父のことを仰いでいた。些細なことですぐ怒りだす短気な祖母が喧嘩になりそうな時、祖父はいつもニコニコ顔で「はいはい、すべてお前が正しいよ、ダーリン・アイ・ラブ・ユー」と言ってばかりいた。それで祖母は、なぜ怒ったかも忘れたように思わず二人とも笑い出していた。

貝殻でネックレスを作るのが好きだった祖母は、祖父と一緒にカウアイ島の東北海岸にあるアニニビーチに常に行っていた。今でも、二人が渚でしゃがんで貝殻を拾っている光景を記憶している。夏休みのころ、私と弟は祖父母とカウアイ島のお寺で行われる盆踊りに参加していた。そして7、8月になると熟したライチと竜眼をカラヘオの叔父の裏庭で摘んでいた。私は4年ぶりにハワイに帰ってきて、島のあっちこっちを廻って高校時代の懐かしい記憶が湧いてきた。

1991年に、祖母が脳卒中にかかって半身不随になった。祖父母にとって青天の霹靂に違いなかっただろう。世界を旅行して晩年を楽しむはずだったが、祖父は祖母の介護者となった。掃除、炊事、洗濯だけでなく、二人が出かけたとき、祖父は79歳の高齢にもかかわらず、150キロの電動車椅子を自動車のトランクに積んだりおろしたりしていた。こうして6年中一言も文句を言っていなかった祖父は、その根元的な力が一体どこから湧いてきたのだろうか。そして祖母が1997年に亡くなった時、祖父は悲しくていられなかった。お寺に納めるはずだった祖母の遺灰を4年前に死ぬまで身辺に置いていた。

今朝ハナレイ湾を眺めて渚で佇んでいた私は、祖父母が二人で傘を差して太平洋に伸ばした埠頭を歩いて、靄に包まれて消えてゆくのを見た。

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    思い出の旅

    私は、4年ぶりに初めて実家のあるカウアイ島を訪れてきている。この間来たのは(or 前回は)、2009年に日系二世の祖父が97歳の高齢でこの世を去った時だった。アメリカ、日本台湾にバラバラに住んでいる家族は、告別式に参列するためにカウアイ島のハナペペの街にある禅宗寺に集めてきた。鐘撞き堂もある立派なお寺で、ざっと見た(or る)限りでは日本にいるかと思わせるくらいだったが、日本から来た親族に(とって)はきっと違和感覚えさせあっただろう。椿、サツキ、ツツジ、サザンカの代わりにドラセナ、ヤシ、シェフレアといった熱帯植物が(、)お寺の周りに溶岩の間に植えてあった。本堂に入った時て背景に流れていた曲は今でもまで覚えている。イ・ムジチ合奏団がバロック風に演奏した早春賦、荒城の月、赤とんぼ、雪降る町といった日本の四季を思わせる語る民謡、祖父が生前好きだった昭和時代の演歌、そして参列者全員が涙をこぼした最終曲アメージンググレイス(すばらしき恩寵)は、(今でも)まだ耳に残っている。

    祖父は生前、世間一般には世論によると、(特に)偉い人だったとは思えないかった。ただ地方の電力会社の会計士にすぎなかった。それにもかかわらず、祖父のことを尊敬して仰いでいた。些細なことですぐ怒りだす短気な祖母喧嘩になりそうな時、祖父はいつもニコニコ顔で「はいはい、すべてお前が正しいよ、ダーリン・アイ・ラブ・ユー」と言ってばかり(or だけ言って)いた。それで(or なので)祖母は、なぜ怒っていかも忘れたように思わず(二人とも)笑い出していた。

    貝殻でネックレスを作るのが好きだった祖母は、いつも祖父と一緒にカウアイ島の北東北海岸にある海岸、アニニビーチに常に行っていた。今でも、二人が渚でしゃがんで貝殻を拾っている光景を記憶している。夏休みにはのころ、私と弟は祖父母とカウアイ島のお寺で行われる盆踊りに参加していた。そして7(月)、8月になるとカラヘオの叔父の裏庭で熟したライチと竜眼をカラヘオの叔父の裏庭で摘んでいた。私は4年ぶりにハワイに帰ってきて、島のあっちこっちを廻って懐かしい高校時代を思い出していの懐かしい記憶が湧いてきた。

    1991年に、祖母が脳卒中で倒れてにかかって半身不随になった。祖父母にとって青天の霹靂に違いなかっただろう。世界を旅行して晩年を楽しむはずだったが、祖父は祖母の介護者となった。掃除、炊事、洗濯だけでなく、二人出かけていたときには、祖父は79歳の高齢にもかかわらず、150キロの電動車椅子を自動車(or 車)のトランクに積んだりおろしたりしていた。こうして6年一言も文句を言っていなかった祖父、その根元的な力(or 我慢強さ)一体どこから湧いてたのだろうか。そして祖母が1997年に亡くなった時、祖父は悲しくていられなかった(or 悲しみに打ちひしがれていた)。お寺に納めるはずだった祖母の遺灰を4年前に死ぬまで(自分の)そば 身辺に置いていた。

    今朝、ハナレイ湾を眺めながら渚で佇んでいた私は、祖父母が二人で傘を差して太平洋へとばした(or 太平洋に突き出た)埠頭を歩いてそのまま霧に包まれて(すーっと)消えてゆくのを見た(or ゆくのが見えた)。

     

     

    ブライアンさん、
    まるで小説を読んでいるかのような感動的な文章でした。すでにAkatuyさんの見事な添削があるので、違った表現を加えてみました。(お恥ずかしい話ですが「青天の霹靂」に違和感を感じない99%の日本人の一人です。

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