わたしの夢
かつて、フランスのナポレオンは”将校になりたくない兵士などいないわけがない”と言った。確かに、夢ぬきの人生はまるで月が見えぬ夜のように、一面の暗闇だけだ。
子供のころ、わたしはよく”あなたは、どんな夢を持っていますか。”と聞かされた。しかし、年齢いかんによって夢も様々になる。それで、わたしの抱いた夢は本当にたくさんあるのだ。
小学校の時、よく空を見上げたわたしはその青いところにもっと近づきたかった。想像の中では、雲がわたがしのようにふわふわしているはずだ。だから自分の遠視を押して心から飛行士になりたかった。結果は明らかなので、あきらめたのだが、そのような子供らしい夢のない子供時代は子供時代と言えないと思う。
中学に入った後、文系の才能がだんだん表われてきた。国語であれ英語であれ、いつも見事な得点を取った。両親が喜んだだけでなく、わたし自身も欧米文学にのめりこんでいった。いつしか、欧米文学の専門家になると決めた。が、欧米の文学作品を読んだ時、愕然<がくぜん>とした。複雑な人物関係(に)はもちろん、数え切れないほど出て来ためったに見たことのない単語にも悩まされた。その度に、自分の言語知識はまだまだ薄っぺらだとわかってきた。そして欧米文学の専門家になるのは儚い夢だと悟り、ギブアップした。思春期のわたしにとって、切ない感じがしたと同時に、初めて個人のちっぽけさを知った。
時は流れ、今大学で日本語を専攻生として努めている。偉い夢を追うより、日本語を習得し、そして通訳なり日本語の先生なり、日本語に関する仕事に携わるほうが現実的だ思う。それは成長したなのか、それとも堕落したなのか。この問題を考えるとすると、何となく心に一抹のむなしさが込み上げる。
”いったい何をしたいですか”と聞かされたら、今のわたしはあれこれと思いを巡らして、けっきょく答えをなかなか出せないおそれがある。が、夢あるいは目標と呼ぶものを持てば、人生の意義とまでは行かないまでも、少なくとも前途は明るくなる。この厳しい世の中で情けなくも何度か夢破れたけれども、まだほかの夢を追うチャンスがあるだろう。たくさんの夢は気紛れの証とは限らない。成長の跡といってもいいと思う。やはりわたしはその美しい夢がある世界を大切にしたい。