>奉公人の武道をたしなめると申せば、
>いかにも人よくせよと申せば、
この文を解釈する上で、
私が気になっているのは、どうして「申せば」なんだろうか、ということです。
この文の書き手はたぶん、武士。
「申す」は謙譲語。
武士が奉公人に謙譲する必要はないわけで。
では、「申せば」の主語は奉公人なのか?
もう少しよく考えてみます。
(単なる勘違いかもしれないし)
************追記
>有時、土屋右衛門丞、高坂弾正に問て云、『奉公人の武道をたしなめ、と申せば、喧嘩ずきに成。如何にも人よくせよ、と申せば、武士道無心懸に成。此間は何としめして家風をよく仕らん。』
ああ、そういう前フリがあったのですか。ならば、「土屋右衛門丞が、高坂弾正と話すにあたり、言葉遣いを、へりくだり気味にして、全体の雰囲気をていねいにしている」という事かなと思います(敬意の対象、方向は、「土屋右衛門丞 → 高坂弾正」)。
「如何にも人よくせよ、と申せば」については、
「如何にも」:→ 「いかにても」→「いかであっても」→「どうであっても」「どうであろうと」、「どんなときも」
「人よくせよ」:→「人となりを良くしろ」
と見なし、全体は
「どんなときも良い人でいなさいといえば」ぐらいの意味かなと個人的には思います。
全体は
「奉公人は、武道を学べといえばケンカ好きになるし、いつも善人でいろといえば、武士道に劣る者になる(まったく困ったものだ)」ぐらいの意味かと思います。
※ 「奉公人の」の「の」は、主格(主語)で解釈。