現代人の思い込み――家族愛の真相
現代社会に生きる多くの人々にとって「家族」と「家族愛」は身近くてでごく自然なことである。しかし社会史を顧みると、「家族」という単語概念や家族の存在自身は全部近代社会の産物であることが分かった。近代資本主義社会は近代家族を外の世界から隔離された私的領域と位置づけ、家族成員の再生産・生活保障の責任と感情マネージメントの責任をそれぞれの家族に押し付けている。それは近代家族の性質である。
そして「家族愛」も近代社会の特有なものである。ここで言っている家族愛というものはコミュニケーションの中に自然に生じた感情ではなく、記号としての愛情である。愛情という記号でイメージされる「家族のために犠牲を払うこと」のような条件をクリアすると、愛情というラベルが意味付与され、「愛情がある」という、現代社会では価値のある評価が得られる。その代わりに、「愛情がない」と評価される人は異常と見なされ、非難され、人間性を欠いた存在として世間から排除される。
このような感情があったり、なかったりすること自体を善悪で価値判断する意識の広まりには感情に関する社会規範、具体的には家族に関するイデオロギーが存在する。そのなかにで、愛情と家族責任を結ぶイデオロギー(恋愛結婚)、母性愛のイデオロギーとジェンダーの神話(女性の家事労働)は近代家族を支える装置だと見なされている。
恋愛結婚と女性の家事労働が登場するのは資本主義が発達した産業革命期の18世紀ごろであって、まさしく当時の富裕化したブルジョワジー、いわゆる当時社会の主流になっていく中流階級の都合で理想化されたあり方である。
最後に、以上のようなイデオロギーにより(たとえば、家事をするということは「愛情=価値」と連動しているがゆえに、家事労働は限りなく続けることができるし、自らを拡大再生産する構造になっている。)近代家族の成立と続く存続ができる可能となる。しかし近代家族において問題視された諸現象には同じイデオロギーが原因でとなっているものがあり、例を挙げると、恋愛結婚を信じ込んでからこその晩婚化と、子供を昔より大事にするほど起こっている少子化。また、コミュニケーションとしての愛情と記号化としての愛情の乖離は人々にとっての悪影響もある:たとえば、愛情体験があっても、記号としての愛情は出られないの範疇から疎外されたために、罪の意識を生じさせてしまうことと、本当のコミュニケーションを阻害し、夫婦関係また親子関係を悪化させることなどが生じてしまう。
この本を読んだ後、個人的にはイデオロギーの洗脳から解除された感じがするし、諸社会現象に対しての見方が変わった。例えば離婚裁判のなかに、不貞行為があるった場合、一方はその当事者が配偶者に対して払わなければならない多額の慰謝料は、配偶者への謝罪金というより、家族愛に関する社会規範を破るったために支払う罰金のようにみえる。また育児放棄という行為はもやはり当事者にとって残念酷なことではあるが、社会規範としても許されないのである。